写真・川上信也/文・嶋田絵里

 英彦山の裾野から周防灘へと広がる京都平野の丘陵地・行橋市新田原地区は、明治20年代から続く果樹栽培の地だ。とくにモモの栽培は、福岡県で最初と言われ、現在は、モモのほかイチジク、ナシの栽培が盛んである。
 JA福岡京築・新田原果樹部会の部会長を務める鞘野正明さん(60)も祖父の代から新田原で果樹園を営む。
 「祖父は、大正5年に八津田村宇留津(現・福岡県築上郡築上町)から新田原に移住しました。当時、このあたりは松林の原野でした。それを、この地に果樹栽培を伝えた広島、岡山、愛媛の人々や長崎から来た入植者が開墾して果樹園にしていったと聞いています」
 土壌は赤土で、果樹栽培に適しているとはいえないが、新田原を一大果樹園にしたのは、温暖な瀬戸内海式気候と明治30年開業の豊州鉄道(現・JR日豊本線)新田原駅の存在が大きいという。
 「朝、収穫した果物が新田原駅に集められると、鉄道でその日のうちに北九州工業地帯や筑豊の炭鉱に出荷することができて、需要の高い場所に直接送れる地の利で果樹産業が発達しました。赤土であることも、じつは果実のおいしさにはプラスに働くんですよ」
 赤土の土壌では、樹木の根が張りにくい。根から十分に栄養を吸収できないので、木を生長させるよりも子孫を残そうと、果実に栄養を集中させ甘味が増すのだという。
 「木ばかり生長させても実は大きくなりません。果物づくりというのはバランスづくりだなと思いますね。花が咲いても実質3%しか実にはなりませんので、97%は手で花を落とします。どの花を残したらいいのか、どんな枝ぶりがいいのか、施肥も含め、そのバランスが大切です」
 かつてここ新田原には、果樹園のほかにトラピスト修道院があった。修道者は長崎の五島や平戸出身者が多かったため、五島列島に「新田原に広い土地がある」と伝わり、移住したキリスト教徒の移植者も多く、昭和2年に修道院のナシ畑のそばに新田原カトリック教会が建てられた(昭和5年に、現在地の行橋市東徳永に移転)。
 鞘野さんの果樹園を訪ねたときはお盆前で、モモとナシの収穫の真っ最中。収穫期の夏から秋にかけては国道沿いに並ぶ直売所に、箱詰めされた果物が積まれ、もぎたての果実を求める人でにぎわう。果樹園を見わたす丘に静かに教会が建っている。

参考文献:山内公二『新京築風土記』2017年



「行橋市新田原の果樹園」 果樹園農家 鞘野正明さん

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