写真・川上信也/文・嶋田絵里

 南風をうけてなびく縞木綿――箱崎縞は、明治時代に福岡県粕屋郡箱崎村で始まった木綿の織物で、博多祇園山笠の法被、炭鉱の労働着、庶民の普段着、日用品として使われていたが、戦時中の金属回収令で機織機がつぶされ、産業も消失した。
 昨年、そのまぼろしの箱崎縞を復活したのが尾畑圭祐・香蘭女子短期大学准教授だ。
 東京のファッション業界でデザイナーとして働いていた尾畑さんは、2010年、郷里の福岡市で、織物について学ぶため博多織デベロップメントカレッジに入学。2年間学んだあとは、御供所町(福岡市博多区)の工房で博多織をつくりながら、香蘭女子短大講師として勤めていた。
 「大学での研究素材として興味を持ったのが箱崎縞との出合いです。東京では、日常着のカジュアルな服のデザインをしていましたので、博多織の次に学び研究するなら絹織物ではなく綿織物がいいなと思っていました。そこで見つけたのが、昭和57年に福岡女学院短期大学が出した紀要のなかにあった徳山怜子先生の『庶民の布「箱崎縞」考』でした」
 箱崎縞が、福岡市博物館の博多祇園山笠長法被と須恵町立歴史民俗資料館の反物で現存していると知った尾畑さんは、須恵町の歴史民俗資料館を訪ね、箱崎縞の構造を調べるため端切れを譲り受けた。
 「端切れの糸をほどき調べると、経糸緯糸とも単糸で織られており、糸は通常よりも太い糸が使われていることがわかりました。また、箱崎縞は近代に始まった比較的新しい織物なので、化学染料を使って糸を染めています。このため草木染めなどでは色が出にくい赤や黒の色が鮮やかに残っていました」
 近代日本の紡績業の発展にともない、地方の箱崎村でも、織物業は家内業から工場での製造へ、染料も藍染めから化学染料へと変化していく。箱崎縞はとくに明治後期から大正中期に隆盛をきわめ、明治43年(1910)に開催された九州沖縄八県合同共進会にも出品された。
 現在、山笠の法被は久留米絣でつくられているが、今年、御供所町の町内会の集まりで着る法被を箱崎縞でつくってほしいとの注文をうけた。少しずつ箱崎縞を地元へ還元していきたいと話す尾畑さん。復活した箱崎縞は縞と格子柄で服や小物にデザインし、販売(「メゾンはこしま」博多区御供所町)されている。

「箱崎縞の山笠法被」 箱崎縞・尾畑圭祐さん

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