写真・川上信也/文・嶋田絵里

 英彦山六峰のひとつ、福智山。北には皿倉山(北九州市)、南には香春岳(田川郡香春町)。そして西に位置する鷹取山(直方市)の麓に内ヶ磯窯跡がある。白糸の滝、福智神社、上野峡と下った先の集落が、400年以上続く上野焼の地。
 遠賀川支流の彦山川によって形成された沖積平野の上野台地は、陶器の原料の粘土や釉薬の原料の長石が採れる粘土層であるうえ、上野峡一帯は昭和の初期まで窯火の燃料となる赤松林帯で、窯業の条件がそろった適地だった。上野焼は、文禄慶長の役で朝鮮半島から連れてこられた尊楷を細川忠興がこの地に招き開窯したと言われる。小笠原時代も含め小倉藩の御用窯であり、「古上野」の銘で、茶器として名を馳せた。
 その陶祖・尊楷の流れをくむ上野焼宗家 渡窯十二代の渡仁さん(54歳)に話をうかがった。十一代の父・渡久兵衛さんは、高鶴元さんらとともに、昭和30年代に上野焼を再興した一人だ。
 「そもそもこの場所は、黒田如水や細川忠興の所領になる前は、豊臣秀吉に仕えた古参家臣の毛利勝信が治めていました。1602年に細川忠興が小倉城に入城して豊前領を治めることになり、その年を上野焼開窯の年とされています。しかし、毛利勝信も朝鮮に出兵していますので、私は、忠興入城以前の1594、5年ごろからこの地には陶工が連れてこられ、窯が開かれていたのではないかと考えています」
 渡窯での制作工程は、土つくりからはじまる。山から採ってきた土を乾燥させ唐臼で粉砕し、水につけて不純物や大きな砂などを取り除いたら、土倉で数か月寝かせる。釉薬は、土灰、藁灰、長石、含鉄土石銅など。とくに原料選びと精製は重要で時間がかかる作業。窯は、登り窯、電気やガス窯を使い分けている。登り窯は、1250度以上の炎にするため20時間以上薪をくべ続けなければならないが、茶器は登り窯で焼くことが多い。
 「登り窯は、炎の当たりかたが表と裏で違ったり薪の灰が釉薬と化学反応を起こして、思ってもみないような色彩や表情を見せてくれ、おもしろいですね」
 昭和30年には、上野焼古窯である釜の口窯跡が発見された。三上次男・東京大学教授(当時)を中心とした調査団が発掘調査に入り、江戸初期の上野焼の皿、碗、鉢、甕、壺などが出土した。
 「その陶片が当時、上野焼再興に励んでいた父たちの作品づくりに大きく影響を与えたと聞いています」
 窯焚きの際はデータを毎回とり、その数値にもとづき窯詰めの配置や釉薬の配合を考える。また一方で、古上野の陶片を見て試行錯誤を続け、進化する伝統を守っている。
「小倉藩の御用窯・上野焼の伝統」 渡 仁さん

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