写真・川上信也/文・嶋田絵里

 猪野詣りで博多の人に親しまれた、福岡県糟屋郡久山町の猪野神社。そこから山裾の道を約2キロ上ると、遠見岳と白山の山峡、清流の猪野川のほとりに茅葺き屋根の建物が現れる。江戸時代の武家屋敷や庄屋のようなその建物は、「御料理 茅乃舎(かやのや)」(久山町猪野字櫛屋)という名のレストランだ。
 2005年に、久山町の総合食品メーカー・久原本家の食事処として建てられた「茅乃舎」は、20年後の今年2025年初めから春にかけて、屋根が葺き替えられた。2005年と2025年のいずれも、茅葺きの屋根を葺いたのは、(株)奥日田美建の三苫義久さん(88)だ。 ※茅は、屋根を葺く材料となるイネ科の植物。ススキやヨシなど。
 三苫さんの茅葺き職人歴は40年。材木などを扱う会社を脱サラし、後継者のいなかった茅葺き職人のもとで修業した。太宰府天満宮をはじめ、黒川・由布院などの旅館の茅葺き屋根を葺いたり、近年では、吉野ヶ里遺跡の復原住居など、文化財の屋根の修復を行うことも多い。
 「むかしは、各地の川筋や村々に茅葺き職人がいた。茅も、入会地(いりあいち)といって、村の人たちが共同で管理する土地があり、そこを野焼きして茅場を保っていた。屋根の葺き替えも結(ゆい)といった共同作業で行なっていた。」
 昭和30年から40年ごろ、農業の機械化が進み、村に牛馬がいなくなり、里山には材木となるスギやヒノキばかりが植えられはじめた。
 「野焼きをしていない山の茅(ススキ)はだめ。毎年、野焼きをすると、茅は一本一本まっすぐ生えてくれる。材料として使える条件というのがあって、野焼きをしていない山のススキは、根元が曲がって生える。そうすると、硬い根元の曲がった部分を切るから、茅が柔らかくて使えない。そういう意味で、現在、茅がとれるのは、九州では阿蘇外輪山の周辺だけです。」
 「茅は既製品と違って、自然のものなので、茎の細さも一本一本違い、茅をくくった束の大きさも一つ一つ違う。掌(たなごころ)で感触を確かめながら積み上げ、バランスを見て整えていく。屋根の表面も真っ平ではなく、膨らみをもたせている。屋根裾は、着物の裾のように少し上に広がっている。その細かなバランスと美しく見せるための技術がむずかしいとです。」
 2005年に茅乃舎をつくったときは68歳で棟梁。当時は屋根葺きの職人が3人しかいなかった。2025年の今は、三苫さん自身が屋根にのぼることはないが、職人が9人に増えた。各地の職人も手伝いに来てくれている。千葉の大学で古民家再生の勉強をして入社した若い職人もいる。
 「温暖化で高温多湿になり、ますます材料をそろえるのがむずかしくなっている。今回の茅も、4、5年前から言って阿蘇茅葺工房に用意してもらった貴重な茅です。それでも、これから育つ職人さんらと、掌を大事にして、茅葺き屋根の技術を残していきたいと考えております。」
「原風景の茅葺き屋根」茅葺き職人・三苫義久さん

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