写真・川上信也/文・嶋田絵里

 夕刻、福岡の街に屋台が出現し、夜の景色を彩る。
 福岡の屋台は、近くの駐車場に置かれていた屋台を引き屋がそれぞれの店の場所までバイクや人力で引いて届けたあと、組み立てて営業が始まる。車輪がついたリヤカーと一体化したような独特の形の福岡の屋台。その屋台大工として、約 38 年間、およそ 100台の屋台をつくってきたのが、赤城建具店だ。店主、赤城孝子さんに話を伺った。
 「現在の屋台の原型をつくったと言われるのが、緒方宇八さんです。緒方さんは、はじめは屋台で料理を出していた方でしたが、のちに昭和30年ごろでしょうか、屋台大工となって、福岡の屋台製作を一手に引き受けていました。うちの近所に住んでいて、緒方さんに頼まれて屋台の障子を作ったのが始まりで、そのあと屋台作りを手伝ったりしていました」
 80代となり引退を考えていた緒方さんに変わって、当初、屋台作りを引き継いだのは、夫の赤城光則さんだったそう。だが引き継いだときから、前々年の脳梗塞の後遺症があった光則さんの仕事のサポートを孝子さんは行ってきたという。
 「私の実家は、熊本県天草の大工の家系で、父も兄弟も大工。小さいころから大工仕事をずっと見てきて、やりかたはわかっていた。夫の仕事もそばで手伝いながら見ていたので、夫が亡くなったあとは私が屋台大工を引き継ぎました」
 屋台は、間口(横幅)3.0m・奥行 2.5m の規格内に収めなくてはいけない。限られたスペースの中で、いかに効率よく調理を行なったり、すばやく屋台を組み立て、準備や後片付けができるか、赤城さんはこれまで作ってきた経験を踏まえて屋台の店主に設計図を提案するという。また、柱は無節のヒノキを使い、調理で水がかかるところにはステンレス板を張り、内部の見えない部分も塗装した板を使っているため、雨風にさらされる屋台でも何十年と持つそうだ。
 屋台の注文が急増したのは、アジア太平洋博覧会(通称「よかトピア」)があった1989年で、その前年に、中洲の川沿いの屋台をすべて作り直すことになったため注文が一気に増えた。赤城建具店がそのころ作った屋台で、いまも現役の屋台も多い。
 「最近は、私はもっぱら監督業で、屋台の本体は大工の弟に、ステンレスを張ったり、羽根(屋根)に板金を張るのは板金屋さんにお願いしています。羽根がぴったり水平になるためには1ミリ単位の合わせが必要で、その按配はなかなかまだ任せられませんけどね」

 福岡の屋台は、戦後の簡易店舗、あるいは明治期の「ふれうり」が元とも言われる。いまや福岡一の観光名物となった屋台。赤城さんはその屋台を縁の下で支えている。
「福岡の屋台大工」赤城建具店(糟屋郡志免町)・赤城孝子さん

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